« 医学の論議 | メイン | サラエボ事件の 陰謀 »

プロイセン公国の足取り

プロイセン公国とはどのような国だったのでしょうか。
大きな謎がここにありました。


1511年総長に選出されたホーエンツォレルン家のアルブレヒト・フォン・ブランデンブルク=アンスバッハは1525年ルター派に改宗、領内の騎士団を解散して世俗の諸侯となりプロイセン公国を創始する。1568年、アルブレヒトの死にともなって、同じくホーエンツォレルン家のブランデンブルク選帝侯ヨアヒム・フリードリヒは、アルブレヒトの子アルブレヒト・フリードリヒと共にポーランド国王からプロイセンの共同相続を認められ、同君連合への道を開いた。

1618年プロイセン公アルブレヒト・フリードリヒの死によりプロイセンにおけるホーエンツォレルン家は断絶し、プロイセンはヨアヒム・フリードリヒの子ヨーハン・ジギスムント選帝侯がプロイセン公を兼ねる同君連合となる。このころはまだ選帝侯の領土は各地に分散した飛び地ばかりであり、プロイセンもその1つに過ぎなかった。

17世紀に入ると新興のスウェーデン王国がバルト海に勢力を伸ばし、またロシア帝国もポーランド王国と対決する。この過程でポーランドは弱体化し、プロイセンの自立化が進む。1660年フリードリヒ・ヴィルヘルム大選帝侯はプロイセン公国をポーランドの宗主権から解放した。1679年大選帝侯はスウェーデンよりポンメルンを占領し、ドイツへの影響力を排除した(1720年に獲得)。海軍も強化し、バルト帝国に君臨したるスウェーデンのくびきをいち早く脱して強国への足掛かりを築く。

1701年大選帝侯の子、ブランデンブルク選帝侯フリードリヒ3世はケーニヒスベルクに赴きプロイセン王として即位、フリードリヒ1世となる。当時、三十年戦争で疲弊したとはいえ神聖ローマ帝国の威光はいまだ衰えず、名目上は皇帝の臣下であるブランデンブルク選帝侯が王号を称するには多少の困難があった。そのような僭越が許されたのはスペイン継承戦争に備えて皇帝レオポルト1世が一兵でも多くの軍勢を集めねばならず、フリードリヒ1世が8,000の兵を援軍として送ることを約束したからである。これによりブランデンブルク選帝侯は、帝国の領内ではないプロイセンにおいて王(König in Preußen)であることが許された。しかしこの称号はプロイセンの中だけの、いわば格下の王号であって、ブランデンブルク選帝侯が正式にプロイセン国王(Könige von Preußen)として認められるにはフリードリヒ大王による西プロイセン獲得を待たねばならなかった。王国においてむしろ北辺に過ぎないプロイセンがこのホーエンツォレルン家の支配する国の名となったのは、プロイセン公国がどの大国にも属さない独立国家だったからなのである。そして大北方戦争後期の敗勢のスウェーデンから前ポンメルンを獲得するなど、バルト海地域の勢力図を塗り替えていった。

このあとプロイセン王国はホーエンツォレルン家の支配の下軍事大国への道を歩んでいく。移民を受け入れる伝統は新たな王国に受け継がれ、プロイセン地方にはフランス王国やザクセン公国などから追放された有能なユグノーたちが移住してきて産業を振興させた。1772年にはフリードリヒ大王による第一次ポーランド分割の結果西プロイセンもプロイセン王国領となった。


引用『ウィキペディア(Wikipedia)』
相互リンク
デリヘル 青山 デリヘル 川崎 吉祥寺 デリヘル デリヘル大阪 デリヘル 西川口 デリヘル 松戸 新横浜 デリヘル 大塚 デリヘル デリヘル 恵比寿

トラックバック

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.kantan-blog.com/cgi_bin/mt/mt-tb.cgi/1339

About

2008年01月08日 23:42に投稿されたエントリーのページです。

ひとつ前の投稿は「医学の論議」です。

次の投稿は「サラエボ事件の 陰謀」です。

他にも多くのエントリーがあります。メインページアーカイブページも見てください。

Powered by
Movable Type 3.34